野田市さんぽ「梅郷駅西部・山崎宿から櫻木神社」

野田市さんぽ「梅郷駅西部・山崎宿から櫻木神社

○「福寿院」(山崎1663)

東武野田線梅郷駅を降りて西に向かうと、流山街道(日光東往還)の西に「福寿院」があります。創建は応永12年(1405)といわれ、当時は字大和田に開かれたと伝えられています。その後焼失し、元禄年代(1688〜1703年)に現在地に移り山崎宿本陣としても使用されました。門前の梅郷駅入口交差点あたりが「高札場跡」だといわれています。

○「山崎宿」(山崎1606周辺)

山崎宿は、水戸街道小金宿から約4里の行程にあり、日光東往還最初の宿場で、梅郷駅前あたりが旧宿場の中心でした。江戸時代は宿場町として栄えましたが、現在、宿場の面影はまったくありません。江戸時代は30数軒の家があり、道幅が八間(約14.5m)で、両側にはなんと人道がありました。つまり人よりも農産物などの物資の移動が激しかったようです。流山街道の拡幅工事で大半の町家が消えましたが、街道の裏道や横手に板塀の続く古民家が残されています。ほとんどが名主など豪農でした。歩道橋の手前左手に、ブロックと青い波板の塀で植え込みのある広い敷地を囲った民家があります。山崎の名主で本陣を勤めた吉岡家で、山崎宿バス停近くの歩道に木製の小さな常夜燈(夜に点灯)が立っています。道向かいの吉岡酒店の本宅のようです。問屋は吉岡金太郎家と中村熊太郎家でした。野田市山崎の信号あたり、山崎宿入口(南側)のカーブは曲尺手の名残りといわれています。

地蔵尊

野田市山崎交差点の東角地の民家ブロック塀には凹みをつくって、そこに屋根を設けて地蔵尊が安置されています。

【日光東往還】

「日光東往還」は日光街道脇往還の一つで、水戸街道の小金宿を経て柏の追分からこの街道に入り、山崎宿、中里宿、関宿、境宿、谷貝宿、仁連宿、諸川宿、武井宿、結城宿、多功宿を通り、雀宮宿で日光街道に合流します。正式には「関宿通多功道」、別名を関宿道、久世街道、結城街道とも呼ばれていました。現在の千葉県柏市流山市野田市関宿町(利根川)→茨城県境町→古河市結城市→栃木県小山市下野市→(宇都宮市)です。

○「十社子安大明神」(山崎貝塚町5)

流山街道(日光東往還)を南に向かうと野天風呂・湯の郷の入口、東新田自治会館前バス停の脇に「十社子安大明神」があります。祠の中には石塔が祀られています。

野天風呂・湯の郷】(山崎貝塚町5)

平成15年2月オープンしたばかりのスーパー銭湯です。野天風呂は日本庭園の趣きがあって楽しめます。歩き終わった後の入浴によろしいようです。

○「山崎貝塚」(山崎貝塚町26)

流山街道に看板があり、西に入って行くと「山崎貝塚」があります。昭和50年に本格的な発掘調査が実施された結果、貝塚は直径約130m、北東および南西に開口する2つの弧状の貝塚からなる馬蹄形貝塚であることがわかり、北東側開口部の外側に住居跡17軒からなる縄文時代中期後葉の集落跡が発見されました。野田市郷土博物館に、資料の一部が保管・展示されています。現在埋め戻されたようで、あまりに跡地が美しい農地に変わり、遺跡の片鱗をみいだすことさえ難しくなっています。

○「山崎の石仏群」(山崎2370)

さらに流山街道を南に向かうと、東新田バス停手前に「東新田の石仏群」があります。元文2年(1737)の庚申塔猿田彦大神像の庚申塔などがあり、庚申塔といえば青面金剛像が一般的ですが猿田彦像は珍しいです。さらに南に地蔵がならんでいます。

○「海福寺」(山崎964)

山崎交差点まで戻り、西に向かい南に少し入ると「海福寺」があります。岡部氏の菩提寺であり、慶長4年(1599)岡部長盛が先祖の菩提を弔うために、下野国の洞雲寺(現栃木県西方町)から萬室英松和尚を迎えて創建しました。境内に七福神が揃っています。

【山崎城跡】

海福寺から山崎梅の台公園あたりが「山崎城跡」とされていますが、海福寺の周りはすべて住宅地になっており、城跡の面影などみじんもありません。天正18年(1590)後北条氏を滅ぼして関八州に入国した徳川家康は、岡部美濃守長盛を江戸の守りのかなめとして下総・上総1万2千石に封じました。この長盛は、この山崎城を本城とし、翌天正19年には堤台に堤台城(野田市堤台)を築き領内を治めました。岡部家は代々、駿河国岡部郷に居住して今川氏に仕え、長盛の父・正綱の代に今川義元が滅びたため、一時武田氏に仕えましたが、その後徳川家康に仕えました。正綱の嫡子・長盛は永禄12年(1569)に生まれ、天正12年(1584)家督を継ぎます。家康の家臣として武功を立て、家康の関東移封に伴い、天正18年に野田の山崎にやってきました。そして、野田の在城は慶長14年(1609)までの19年間に及びましたが、丹波亀山藩に加増移封(3万2千石)され、ここに下総山崎藩は廃藩となった。岡部長盛は、岸和田だんじり祭りで全国的に有名な大阪の岸和田の岡部氏の中興の祖とも\xA4

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○「とんとんみずき橋」(みずき1-10)

海福寺の西方に「とんとんみずき橋」があります。木造の歩行者用陸橋で日本一だそうですが、重要な箇所に木材の腐食が見つかり現在は通行止めになっています。次の説明があります。

《この木橋は、昔の野田橋や梅郷村(のち野田市と合併)役場などをイメージして作られたものです。世界で最も丈夫と言われている西アフリカ産のエッキ(ボンゴシともいう)という木材でできており、幅4〜6m、長さ193.5mの歩行者専用橋で、現存する木橋としては日本有数の規模のものです。「とんとんみずき橋」という名前は、橋の完成とみずきの街の入居開始を記念して市民から募集した名前の中から選ばれました。》

庚申塔

とんとんみずき橋バス停の近くに「庚申塔」があります。

○「女躰神社」(今上1213、1513)

とんとんみずき橋から北西に向かうと、二か所に「女躰神社」があります。明治13年の『今上村神社明細書』によれば、慶安4年(1651)葛飾郡内川村(現埼玉県吉川町)の岡田八郎兵衛が今上村上谷に隠居し、生所の神社を模して氏神としたのが始まりとあります。その後、下谷にも上谷の女躰神社を模して創建したとも記されています。毎年2月11日には、社殿から境内に立てた的にめがけて弓を引くオビシャが行われます。

【上谷女躰神社】(今上1213)

みずき1丁目団地の西、上下谷自治会館入口バス停から南に入ると上下谷自治会館に隣接して「上谷女躰神社」があります。

【下谷女躰神社】(今上1513)

上谷女躰神社の北方、松戸野田有料道路東側近くに「下谷女躰神社」があります。周囲が田んぼになっています。

○「秀覚寺」(今上2120)

下谷女躰神社の西方に「秀覚寺」があります。慶安3年(1650)の創建で、葛飾郡松伏(現埼玉県松伏町)の富豪・石川民部が建立した23寺の一つです。

○「今上八幡神社」(今上1977)

秀覚寺から西に向かい、江戸川土手の手前を左折すると「今上八幡神社」があります。

庚申塔群】

境内や道路際に、青面金剛庚申塔が沢山あり壮観です。道路際に享保3年(1718)の庚申塔、その隣の文字塔が延宝6年(1678)の庚申塔です。

○「覚貞寺」(今上1972)

今上八幡神社の東隣りに「覚貞寺」があります。本堂前左手に如意輪観音が並んでいて、定番どおり全て女性の月待ち行事「十九夜塔」のようです。享和3年(1803)、享保2年(1717)、宝暦9年(1759)など。造形美がすばらしいです。十九夜講とは、別名を子安講(こやすこう)といい、安産や子育て、子供の健康を祈願する、女性の集まりでした。毎月19日の夜に集まり、祈願していたことから十九夜講となりました。

○「神明神社」(上花輪1153)

覚貞寺から北方の野田市街地に向かうと、流山街道沿いに「神明神社」があります。延宝元年(1673)10月上花輪村香取神社の摂社として創設(旧村社)されました。嘉永5年(1852)11月に再建、上花輪太子堂の鎮守となったようです。祭神は天照大御神

庚申塔群】

西側参道に庚申塔が並んでいます。猿田彦大神が主尊の庚申塔もあり、台石の奥には三猿が丸彫りになっています。

【神社前の庚申塔

東側神社入口の道路反対側に庚申文字塔があります。年代等不明。

○「長命寺」(上花輪1358)

神明神社から街道を北に向かうと「長命寺」があります。承久2年(1220)4月、親鸞の第7番弟子西念坊によって創建され、親鸞の説教がはじめられたと伝えられています。親鸞の没後、三代目の覚如上人が親鸞足跡の地を巡った際、107歳の西念が祖師親鸞の布教の苦労を語りました。覚如上人は喜び、西念の長寿にちなんで西念寺(坊)から長命寺と寺号を変えたと伝えられています。なお西念は、正応2年(1289)にこの地において亡くなりました。長命寺の伝承では、西念坊の俗姓は八幡太郎(源)義家の曾孫で信濃国下井郡井上の井上満実の子・三郎貞親と伝えています。満実は戸隠山別当をつとめ、信濃国高井郡井上に館を設け井上氏を名乗っています。井上貞親は、父満実が合戦で亡くなったことで世の無常を感じ、承元の法難によって越後の国府に流罪となっていた親鸞聖人を訪ねて帰依し、西念と法名を賜ったと伝えられています。長命寺阿弥陀如来坐像は、平安末期の作といわれます。

太子堂

境内には、1801年に再建された立派な彫刻が施された太子堂があります。この太子堂には、親鸞聖人の手によるといわれる聖徳太子16歳の時の孝養太子像が安置されて、多くの人の信仰を集めています。太子堂は毎年4月15日にご開帳されます。

【句額】

太子堂内に納められている「太子堂句額」は、野田地方最古の俳諧資料として平成2年に市指定文化財に登録されています。文化3年に44句を納額。非公開。

【開基聴衆院釈西念御坊の石塔】

太子堂の左に「開基聴衆院釈西念御坊の石塔」があります。

○「鳩聚苑ギャラリー」(上花輪1340)

長命寺の東方にある「鳩聚苑(きょうしゅうえん)ギャラリー」は、洋画家・櫻田精一の大作を展示した個人美術館です。それと共に、永年をかけて集めた民芸品なども合わせて展示しています。山荘風のギャラリーの建物は、古い民家(製樽工場)を再利用して作家が設計したものです。入館料無料。

○「櫻木神社」(桜台210)

鳩聚苑ギャラリーの東方に「櫻木神社」があります。神社明細帳によれば、平安朝の仁寿元年(851)に、大化の改新で活躍した大職冠藤原鎌足五代の後胤で、冬嗣三男の嗣良がこの地に居を移した時、この処に桜の美しい大木があり、嗣良がこれの木のもとに倉稲魂命を祀り、その後武甕槌命の神を祀ったのが始まりだと伝えています。明治42年に鹿嶋神社を合祀して櫻木神社と名付けられました。

【高梨家の菩提樹

隣接する高梨家の墓地に一本の菩提樹があり、これは親鸞神職高梨家に逗留したときに自ら植えたと伝えられています。

【門前西側の庚申塔群】

門前西側に庚申塔群があり、大黒様の甲子塔と猿田彦大神彫像の庚申塔などがあります。野田市猿田彦大神彫像が多くて、庚申塔ファンとしては魅力的なところです。

○「中根八幡前遺跡」(中根140)

櫻木神社の東方に「中根八幡前遺跡」があります。古墳時代初頭(4世紀ごろ)の遺跡で、昭和26年に1棟の住居跡が発見されました。住居跡は5m×3.85mの長方形の竪穴住居で、柱穴はなく中央や北よりに炉跡が発見されました。現在は、住宅地の中の史跡公園して整備されています。

【万葉歌碑】

昭和27年に、葛飾早稲のゆかりの地として次の歌碑が建立されました。

 ?鳰鳥(におどり)の葛飾早稲を饗(にえ)すとも

       その愛(かな)しきを外(と)に立てめやも(巻14-3386)?

鳰鳥(におどり)は水鳥のカイツブリのことで、葛飾の枕詞(まくらことば)になります。万葉集が編纂された8世紀には、流山をはじめ現在の江戸川沿いの野田から市川、埼玉の一部も含めた一帯は「葛飾」と呼ばれ、早稲米を産する米どころとして知られていました。この歌は、「葛飾の早稲を神様に供える夜は身を慎まなければならないのだけれども、あのいとしい人が来たら外に立たせたままにすることができるでしょうか。とてもできません。」という意で、恋する乙女心をうたった歌です。

○「菅原神社」(堤根65)

中根八幡前遺跡の東方、旧日光街道(日光東往還)沿いに「菅原神社」があります。上花輪村の高梨順信が建立しました。

芭蕉句碑】

境内に、芭蕉句碑があります。芭蕉と素堂の連句碑は珍しいです。

 ?梅可香耳能つ登日濃出る山路か南?

  (梅が香にのつと日の出る山路かな)

元禄7年(1694)の春、芭蕉51歳の句です。村の名主であった天離斎夷守(てんりさいいもり、高梨孫七)が文化14年(1817)に建立し、野田市で最も古い芭蕉句碑です。素堂の句は次のとおりです。

 ?日能廻累世界を梅の尓本ひか南?

  (日の廻る世界を梅のにおひかな)

庚申塔

参道に、珍しい丸彫りの青面金剛と享保11年(1726)の庚申塔があります。

○「花井明神神社」(花井190)

菅原神社の南、街道右手に「花井明神神社」があります。寛永16年(1639) に旧花井村の守神として建立されました。

庚申塔群】

街道沿いに庚申塔等の石仏・石塔が多く並んでいます。享保11年(1726)、天明6年(1786)の庚申塔、宝暦6年の庚申塔は浮彫もしっかりしていて立派なものです。

○「鏡円寺」(山崎1638)

花井明神神社から街道を南に向かうと、梅郷駅のすぐ北西に「鏡円寺」があります。山門は野田線線路の方を向いています。創建は慶長年間(1596〜1614年)と伝えられ、開祖は海福寺の開山として岡部長盛下野国の洞雲寺から迎え入れた萬室英松(まんしつえいしょう)和尚です。本尊は延命地蔵尊で、「お地蔵様の寺」という